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1000円札と浮浪者に関するつぶやき

昔、ネパールに行ったときのこと。
日本人であった自分の周りには、たくさんの人だかりができました。
そう、それは自分がアニメのキャラクターに酷似して、とても魅力的だったから。
…ではなく、単に当時の日本人が「お金持ち」の代名詞だったからです。

「お金を渡してはいけない」と聞いていたので、ずっと無視していたのですが、
ひとりの汚いおじさんがしつこくついてきます。
本当に、訴えかけるような透明な眼で、僕の目を見るのです。
僕はバスに乗りましたが、その窓際まで彼はきました、
ついに、その熱意に負けてお札を一枚渡しました。

お札は彼の手をすり抜けて、ひらひらと地上に舞い落ちました。
その瞬間、とたんに彼の目はそのお札を食い入るように見つめ、
お札を握りしめると、振り返ることもなく人ごみに消えました。

おもえば、小学校の頃。
両親と歩いていた神戸の街中で、路上に倒れたホームレスを見ました。
どうしても彼のことが気になり、親に1000円もらって、彼に渡しました。
「どうぞ」 驚いて、「ありがとう」
そのときは、幼心にいいことをしたような気になっていましたが、
その1000円札を彼がどう使ったのか、それはずっと気になっています。

そして先日。
西区の路上を自転車で走っていたときに、
一人の男に声をかけられました。
「すみません、建築の仕事をしてるんですが、本陣まで帰るお金がないんです。
お名刺頂ければ、後日お返ししますんで、300円お借りできませんか?」

どう見ても、仕事帰りではなく、少々酒臭い。
格好は汚れているし、手にもったビニール袋も薄汚れている。
しかし、電車に乗れずに歩いていることは確か。
財布に300円はなく、「気をつけて帰って下さい」とだけ言って1000円札を渡す。
彼の眼が輝く。
「よければ、せめてこれだけでも」といって、汚いビニール袋に入った食べかけのスナックパンの袋を出す。
これも、やっぱり汚いわけです(笑) 「あ、いい、いい、いいです」といって逃げるように走り出す。
でも、彼はネパール人とは違い、そのあと自転車で走り去ろうとする僕に向かって走ってきて
「名刺なくてもせめて握手させて下さい」と、手を伸ばしてくる。
手を握る。
すんごい柔らかくてあたたかい手をしているわけです。
走り去る背中に、恨みとも感謝の嗚咽ともとれる奇声。

彼がその1000円札で家に帰ったのか、
家のない彼が向かった先がコンビニのお酒コーナーだったのか、
それともそれ以外の場所であったのか。
それはやはり、わからずじまい。

「お金」ってなんなんでしょうか?

3年前に知り合った60代の知人は、昔貧乏だった影響で今は常にポケットに200万円を入れています。
物流企業とコンビニ2店舗を経営しているため、いまでこそ年商が3億程度ありますが、
昔は音楽一筋で、食うのもたいへんな時期があった、という苦労人。
「安居、コレさわってみろ!俺はいつも200万入れてんだ」と、嬉しそうに、自信満々に。

お金は「心」と密接につながっているようです、
じゃあ、「心」って?

ひとつだけ言えることは、僕が渡したお金はラクーという会社からでたもので、
その会社のお金は、お客様からお支払い頂いたお金で、
そのお金をさらにたどると、お客様のお客様、そしてその先のお客様にまでつながり、
そこには“世の中”という循環システムがあるわけです。

思えば11年前、東京の風呂なしアパートでフリーターバンドマンをやっていた頃、
お風呂に入る400円がなくて、路上で道ゆく奥さんに400円を借りたことが自分にもあります。
「すみません、今日郵便局が閉まっているので、明日返しますので」
「いいです、返さなくてもいいですよ」
そのときは自分、400円握りながら風呂に向かう途中で泣きました。
「ありがとう」<「悔しさ」の涙。

お金の入口、お金の出口、心の入口、心の出口、
そこに人間の知性や価値観、そして最終的には尊厳が問われる気がするわけです。
そのお金を預かっている間、どう使ったのか、それが問われるのが「帳簿」であり、「決算書」。
だから、賢い運用・消費が、誰にも求められているはずなのです。が、
ときに、出口の見えない場所に、1000円札は流れていく。

世の中から預かった「帳簿」、それは人の心、会社の心を映す鏡なのかもしれません。
答えのないところに面白さがあるわけですが。

そういえば、ワイキューブの安田社長の本で「1000円札は拾うな」という本がありました。
2007年に読んで、そこそこ面白かったと記憶しています。

2010年11月26日 | スタッフブログ